ニュータウン楽歩、№2 (@_@。

イメージ 1

早朝散歩⇒今朝も散歩をしながら一昨日の弘法の井戸の続きを思い出している。

井戸を過ぎて100mほど行った所の真言宗毘沙門天妙法寺の見学の事なのだ。

この寺は毎年、正月の三日の日に鬼追いで知られる追儺式(ついなしき)の行事を行い、

私のブログにも2年続けて掲載している。⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/goroiti56/23342661.html

この妙法寺では最盛期には36の宿坊があったと言われている。宿坊とはご存知のように修行僧が寝泊り

する、施設を云う。←衣食住を伴うため、莫大な経費が必要となる。

説明に当たるボランティアの方に歩きながら、どのように修行僧達を養っていたのか?聞いてみた。

ボランティアの方の答は、時の為政者から寺領を拝領していたと云うのだ。

イメージ 3イメージ 2

その先は、あえて問い掛けなかったが、当然その拝領地で米や他の農作物を造ったはずだ。(?_?)

誰が?西洋の僧たちは農作業(麦、ブドウ等)を行い牛や羊を飼い乳を搾り、バターやチイズを作り、

それを換金して宗教活動に使っていたようだが(@_@。残念ながら我が国の僧は農作業はしない<`~´>

寺領に住む百姓(小作人)たちに米を作らせて、6:4位の割合で上米を刎ねて寺院の経営をしていたの

であろうか?←これを巷では上品に年貢米と云う^^;

話はそれるが、奈良、興福寺は膨大な荘園(寺領)を持ち、その経営規模が大きい為に収入を宰領する

事務方に後の戦国大名となる筒井氏(筒井順慶)があった。大層な旨みが、あったのであろうか?

何れにしても、我が国の寺院は百姓を扱き使い、その収入で修行僧たちを養っていたのだ。

その結果、会得した仏法を持って多くの民衆を救ったと云う話は残念ながら、私は知らない(-_-;

坊主が屏風に上手に屁をこいた\(^o^)/なんて、坊主が嫌がりそうな事を考えながら歩いていた(笑)

◆昨夜の献立。①豆腐のすき焼き風。②竹輪とキューリ&春雨サラダ。③焼シャケ。

イメージ 4イメージ 5